2008年08月28日

平城宮跡 東院庭園

平城宮跡東院庭園拡大図

奈良を好きな人はみんな知っていると思うんだけど、平城宮跡に東院庭園がある。
あえて天気のいい日を狙って行ったら、たまたま水の入れ替えをした後だったので、
建物が水に映えていた。(昔の写真だから今日は知りません。)

ただ、この復原した池と建物だけど、当時の設計図などはなく、文献に残っているだけ。
でも、やみくもに造ったかというとそうでもない。

発掘調査により、礎石などの大きさを調べ→柱の太さを考え→建物の高さがわかる
だいたいこんな感じで、あと、
この時代の建物の建て方の特性を加味し、復原しているとのこと。

最近では、もちろんコンピュータで、柱の太さや強度など入力していけば、
自動的にモデリングでき、3Dで画面上に建物が現れてくる。

昔はというと、建物のミニチュア(縮尺模型)をまず造って、
強度等の実験を行ってから、今度は拡大して、実際の建物を造ったらしい。
そのミニチュアが、設計図のようなもの。
おそらく、職人の勘、経験値など、スキルが伴ってのこととは思うけど。

なお、写真の向かって左側は、強度的にみて、
トビラを付けても大丈夫ということでトビラがついている。

右側の水に掛かる部分は、発掘調査の結果、
トビラを付けるとどうも強度的にあやしい。
おそらく、トビラがついていなかったんであろうと想像し、
オープンになっている。 |写真拡大図はこちら

当時の建物がこうであったという保障はない。
でも、やみくもに復原したかというと、そうでもなく、
今現在残る、希少かつ貴重な当時の資料を基に、忠実に復原している。

ネットバカサバイバー/K. Fujisawa

【東院庭園】
1967年、平城宮東張出し部の南東隅に大きな庭園の遺跡が発見された。
この場所は『続日本紀』にみえる「東院」にあたることから、
発見された庭園を「東院庭園」と名付けた。 (奈良文化財研究所HPより
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平城宮は他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東の張出し部を持つ。
この張出し部の南半は、奈良時代を通じて「東宮」と呼ばれていたが、
孝謙・称徳天皇の時代には特に「東院」と呼ばれていた。
称徳天皇はこの地に「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催した。
最近の研究では、光仁天皇の「楊梅宮」は元より、聖武天皇の「南苑(南樹苑)」も
この場所を中心として営まれていたとする説がある。 (奈良文化財研究所HPより
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【参考ホームページ】
奈良文化財研究所 http://www.nabunken.go.jp
平城遷都1300年祭 http://www.1300.jp
平城遷都祭 http://www.sentosai.jp
朝廣佳子Blog http://www.narakko.com/blog-asahiro/

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