2008年09月09日

山田寺

蘇我倉山田石川麻呂が、641年(舒明天皇13)に造営着手した古代の寺院跡。
649年(大化5)、石川麻呂は反逆の罪をきせられ山田寺で妻子八人とともに金堂内で自害。
その後石川麻呂の嫌疑が晴れ、天智・天武により山田寺の造営を再開、685年(天武14)に、講堂の本尊丈六像の開眼供養が行われ山田寺は完成した。
発掘調査により金堂、塔、回廊、講堂、宝蔵、南門の跡などを検出した。その中でも特筆すべきは、土砂崩れかなにかで倒壊した、金堂の東面回廊がそのままの形で発見されたことだ。「日本最古の木像建造物」として復原された東面回廊は、高市郡明日香村の「飛鳥資料館」で展示されていて、当時の木造建築の技術がうかがい知れる。
なお、蘇我倉山田石川麻呂の墓は、大阪府太子町にある仏陀寺古墳とされる。
山田寺の丈六像は、1187年(文治3)に興福寺宗徒により持ち去られ、現在は頭部のみが興福寺に残る。
写真は、近鉄奈良駅ビル4Fにある「なら奈良館」のレプリカ。

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コメント

 奈良の東大寺、興福寺、山田寺には度々お邪魔しています。特に興福寺の佛頭、お釈迦様に心を引かれ、座像か立像を問いました。
 国宝館の佛像冊子を購入し、年数の経過と供に写真に捉えた佛像の思いが伝わり、山田寺と伝わり、探し訪ね山田公園として存在する跡地を写真に捉え、月日の経過をへて写真内容が変化し、公園の跡地に座像と観える。その後周辺に歴史に存在するか否かは不明ですが、何体も佛像が観えます。再起を求めているかの様に感じ連絡させて頂きました。

投稿者: 伊原 眞:2010年09月08日 13:11




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